大阪・関西万博が開幕してはや3ヶ月が過ぎました。
夏休みも相まって、お子様連れで万博を楽しまれる方も多いのではないでしょうか。
とにかく会場内は暑いですから、熱中症にならないためにこまめな水分補給と日傘や帽子など、日差しを遮るものは必須です。そして給水施設も各所に設置していますので事前に確認の上、来場されるとベストです^^
くれぐれも体調にはお気をつけて楽しんで来てくださいませ。
時は戻って1970年。日本万国博覧会(EXPO'70)は2025年関西万博より1ヶ月早い1970年3月1日より開幕しました。
その'70年万博開催に先駆けること12年前、日本は高度経済成長期の中にあって、人口が都市部に集中する事による交通渋滞や環境悪化が問題となっていきます。こういった都市生活の転換期といえるのが、昭和33年に日本初の計画都市である大規模ニュータウンの建設候補地として、大阪吹田市の未開発地域であった千里丘陵が選定された大規模プロジェクトの開始が挙げられます。
計画の特徴は、従来の住宅団地とは異なり、都市機能を総合的に整備する点にありました。住宅、教育、商業、交通、緑地がバランスよく配置され、職住分離の考え方やモータリゼーションへの対応、さらには歩車分離の導入など、当時としては先進的な都市設計が採用され、1962年には第一期入居が始まり、千里ニュータウンは順調に拡大していきます。
まさに本開催中の関西万博のテーマのひとつ「未来社会の実験場」を先駆けた、半世紀に渡って存続中の貴重なニュータウンですよね。
そんな中、1965年、日本政府はアジアで初となる国際博覧会を大阪で開催することを決定。「人類の進歩と調和」をテーマとしたこの万博は、世界の最先端技術と文化を紹介し、日本の国際的地位を高める国家的イベントと位置づけられました。そして会場候補地として白羽の矢が立ったのが、千里ニュータウンのすぐ北に位置する千里丘陵の一角だったのです。
南千里駅に併設された村野藤吾設計の千里南地区センタービル。当時の開発の拠点的存在だった。2013年解体。
万博開催地として選ばれた千里丘陵は、ニュータウン開発によって交通インフラや都市基盤が整い始めていたこと、また空港(当時の大阪国際空港=伊丹空港)にも近く、地勢的にも来場者のアクセスが容易な点が評価され、千里ニュータウンは万博の玄関口となり、交通・宿泊・生活インフラの受け皿として当時重要な役割を果たすことになりました。
国家の一大プロジェクトとして千里ニュータウンの開発が行われたことが結果として、EXPO'70の成功へと繋がっていったのですね。
万博開催にあたって、世界各国から約1600人のホステス(パビリオンスタッフ)が来日しました。
そして、特に女性のホステス達が半年間日本で安心して居住できる場所の確保も急務でした。
そこで、当時築浅でまた入居者もいなかった吹田市竹見台に建てられたY字型公団住宅(通称スターハウス)が宿舎として重要な役割を果たします。
建設中のスターハウス。1968年頃か。
万博会場(千里丘陵)に近く、交通・生活インフラが整っており静かな住宅地で安全性が高く、緑豊かな環境も好まれたのも要因です。
★スターハウスとは?★

スターハウスは、戦後の日本で住宅不足を解消するために日本住宅公団(現・UR都市機構)が建設した独特な形状の集合住宅です。Y字型または三葉型の平面をもち、住戸すべてに採光と通風を確保する目的で設計されました。中層階のスターハウスは多く見られましたが、高層階のスターハウスはまだ珍しく、3棟が立ち並ぶ様子は当時の写真から見ても壮観でした。
そして、成功終わった日本万国博覧会後に、ホステス用に改装された室内が再び一般入居者用として再改装されて千里ニュータウンの《三連星》として長く存在していました。
そのスターハウスも2023年、震性能や設備の老朽化、バリアフリー非対応などの課題が浮き彫りとなって60年に渡って居住者とともに時代を過ごしてきた高度経済成長期のレガシーの星も1棟、また1棟と消えていき、現在最後の星が新星として生まれ変わるべく解体工事が始まっています。

既に2棟が同型のY型住居として新しく建て替えられ、新旧のスターハウスが見られるのもあと僅かとなっています。
私は特にこのスターハウスを目にしながら数十年通勤してきて、そして住居者へのメガネのセンリのご案内DMなどをずっと配布させていただいていたので一層感慨深いものがあります。

しかし、当時の新しい生活に憧れをもって入居された方に家族が増え、そしてその子供、孫がまた新しい星のもとで生活する・・・サステナブルな環境が整っていくのはニュータウンのあり方としては望ましいことでもあります。
今少し、この最後の星を見つめていきたいと思います。
《タカダ》
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