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能勢の里 NO3

2020年10月10日

南千里店

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地黄・野間エリア・・・最終章です。


本日は「丸山城跡」と「地黄城跡」のお話なんですが・・・

お城に興味のない方、すみません!!

面白くない本日のブログです。(苦笑)





まず「丸山城跡」について


長元年間(1028~1037) 源頼光の子供・頼国が

摂津から丹波へ通じる交通の要所であるこの地黄の地に

城を築き「能勢氏」を称し代々この地を居城とした。


城郭は北から南へ延びる尾根の先端を深い堀切を設け、

尾根を区切り、北より本丸、二の丸、三の丸、廓など

一列に並び細長くなっている。





史跡は中世の築城様式特有の土塁、堅堀、空堀帯、曲輪などが

設けられ防御に優れた山城で幾度も戦いが繰り返されたが、

その都度退け、500年余り守り続けた遺構が原型のままで

残されているようです。







丸山城は地黄の北西に突き出した尾根先端の

標高278㍍、比高約40㍍の丸山と云う残丘上に位置します。


豪族能勢氏は、近在で産出した銀や銅の流通を把握して

勢力を拡大し、周辺武士団の惣領として武威を振るったそうです。


平安時代には城館が営まれたとみられ、大手登り口付近には

多くの平坦地を確認している。

能勢氏はその平坦地に居館をおいたと考えられています。





慶長4年(1599年)正月、能勢頼次は京都の東寺に滞在していた

「徳川家康」に拝謁し、御小姓として召し抱えられた。

1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いで東軍の旗本として

奮戦したために、徳川家康より能勢の旧領を与えられ、

石高7800石の江戸幕府の旗本となります。

(因みに、石高10000石以上が大名となります)



長々と丸山城の歴史を書き連ねましたが、興味のない方には

本当に面白くもないお話でしたね。すみませんです。




ただね、今から1000年も前に既にこの地黄という土地に

始まった歴史が、徳川家康・明智光秀らの戦国武将の戦いと同時に

進行して行き、現在の暮らしに継っているという面白さ・・・

これもお城の歴史の魅力の一つではないでしょうか!!



さて今度は「地黄城」についてです。





別名「地黄陣屋」・「丸山新城」と呼ばれておりますが、

城郭構造は「単郭式近世陣屋城」で

天守は実在したかどうか不明だそうです。





慶長7年(1602年)築城開始で元和元年(1615年)に完成しました。

丸山城は地黄城築城と同時に廃城になりました。

地黄城の廃城は明治2年(1869年)となっております。





現在の地黄城跡の様子です。

遺構は大手門跡や石垣が現存しており、往年が偲ばれます。

丸山城から石材・材木を移し、城下町すら移して

町割りを整備したそうです。



能勢頼次は領民に善政を布き、用水の開墾や道路の改修

日蓮宗に深く帰依し、真如寺や能勢妙見山建立も成した。



石垣の普請については「丹波国印南村」の村民が従事したため

その積み方は”印南積み”と呼ばれ今の時代まで現存しております。





日本全国にはこの様に天守はなくても陣屋跡・石垣・堀などが残り

過去にお城、または陣屋などがあったと思われる箇所が

20000箇所前後は有るのではと言われておりますが・・・

諸説あり、何をもって城跡・城趾と決めるのかの基準が異なり

色々と意見の分かれるところでは有るようです。



それにしても築城以来450年近く経った今も石垣が残り、

その土地の歴史が延々と伝わっているなんて・・・

凄い事だとは思われませんか??



大阪城や姫路城のような大きな城下町が在った訳でもなく、

山に囲まれ、田畑に囲まれたこのような大坂のてっぺんの土地にも

人々が生きて暮らしてきた歴史が有るのですねぇ~~



このような話は日本全国どのような土地に行っても

必ず有るという、日本という他国に侵略されなかった

海に囲まれた民族だからでしょうか???



小さな城跡の探訪・散策、興味深くて楽しかったです。


          《タケナカ》




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