田辺城跡
2020年03月27日
「舞鶴赤れんがパーク」からの帰り道、
お城フェチの私としては、この機会を逃さずに
「 田辺城跡 」を訪ねました!!
(しかし、一日で目一杯の日程ですねぇ~~)・・・(笑)
今回はお城とか戦国時代になんの関心もない方には
ツマラナイお話となると思います・・・すみません!!
「田辺城」は、別名:舞鶴城跡(ぶがくじょう)と呼ばれた
鎌倉幕府・室町幕府の八田守護所(丹後守護所)の後身とされるお城です。
築城主は「細川藤孝」、築城は天正10年(1582年)のようです。
明治7年に廃城令により取り壊されましたがその後、
櫓・門・堀・模擬櫓が再建されました。
初代城主は「細川藤孝」(隠居名:幽斎)でした。
(織田信長の命により明智光秀と協力して丹後を平定した人物。)
こちらの城には「田辺城籠城戦記」という面白い歴史が・・・
時は1600年(慶長5年)
天下分け目の《関ヶ原の合戦》の2ヶ月前のお話です!!
二代目当主になっていたのは「細川忠興」は石田三成率いる西軍の
誘いを断って、東軍の「徳川家康」に加勢しました。
石田三成率いる1万5千人の軍勢が田辺城を攻撃!!
この時忠興は東軍の会津攻めに参戦していたために留守でしたが、
父・幽斎がわずか500人の軍勢で戦い、圧倒的不利の中「籠城作戦」
一ヶ月半に渡る籠城の間に、落城寸前まで追い詰められるが・・・
幽斎は自身の持つ「古今伝授の書」を後陽成天皇に献上、
有斎の死を憂いた後陽成天皇の仲介で西軍は攻撃を中止したそうです。
戦国時代にも”政治的取引”はあったようです!!(笑)
ここで城主「細川忠興」と正室「細川ガラシャ」夫婦について・・・
皆様は「細川ガラシャ」という女性をご存知でしょうか?
彼女は「明智光秀」の娘です。
明智光秀とは、あの”本能寺の変”で「織田信長」を討った人物で超・有名人です。
そう現在、NHKにて《麒麟がくる》として放送されていて
大河ドラマの主人公として取り上げられており、
その為に、こちらの地方ではあちらこちらにこの様な”幟”が立っています。
二人は織田信長による政略結婚でともに16歳で結婚しましたが、
細川夫婦に関しては、妻ガラシャが”キリシタン”だったために
宣教師による資料が多く残っているようです。
(こちらの画像は細川ガラシャのサイトよりお借りしました)
「本能寺の変」によりガラシャの父が謀反人として追われ
「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗れたため夫婦の生活は一変・・・
石田三成に敗れるまで数奇な運命に翻弄されたようです!!
大河ドラマ《麒麟がくる》を楽しんでいらっしゃる方には
少しだけでも興味のあるお話となったのでしょうか???
ブログをお読み下さる皆様には、なんの興味もないお話かも分かりませんが
激動の戦国時代を生き抜いた一組の夫婦に思いを馳せてみました。
余談をもう一つ・・・
この細川家一族の家系についてのお話。
第79代:内閣総理大臣 細川 護煕(ほそかわ もりひろ)氏は
こちらの細川家の家系です。
細川護熙氏は、世が世であれば肥後熊本藩細川家18代目当主でした。
新聞記者となり熊本県知事を経て国会議員、そして総理大臣となり
現在は陶芸家としてご活躍の皆様ご存知のあの方です。
徳川の時代になり肥後熊本藩の当主となった細川ガラシャの子孫は
第7代で途絶えてしまい、細川忠興の側室の子(細川立孝)が藩祖となり
熊本宇土藩の第7代目当主・細川立礼が名を斉滋と改めて、
肥後熊本藩の代8代目当主となり、明治・大正・昭和と連綿と続き
細川護熙氏が細川家の第18代目当主となられ今に至っているようです。
私達がお顔まで存じ上げている細川護熙氏が田辺城と歴史的に
繋がられる凄い家系だと初めて存じ上げました。
歴史と家系・・・不思議で壮絶な年月の家系なんですね。
このマンホール、カラフルで綺麗でしょう!!
思わず撮りました。
3週に渡り、長々と書き連ねてまいりましたが・・・
これにて、この小さな旅のお話はお終いです。
最後までお読み頂き有難うございました (礼)
《タケナカ》
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