日本眼鏡技術専門学校
2019年02月22日
今年創立50周年を迎えようとする
《 学校法人 銀海学園 日本眼鏡技術専門学校 》が
昨年11月に吹田市・南千里より下記の住所に移転いたしました。
〒530-0055 大阪府大阪市北区野崎町1番3号
TEL 06-6315-6633 FAX 06-6315-7030
昭和43年5月、「日本眼鏡技術学校」として
宇山安夫氏(大阪大学名誉教授)を校長にお迎えして開校されました。
日本で初めての眼鏡技術者養成学校です。
50年前に業界の将来を見据えて、大坂を中心とした
眼鏡商工業者の皆さまが、全国の同業者に募金を呼びかけ
設立基金となさったようです。
創立当時は大阪市阿倍野区昭和町にあり
1期生、2期生は6ヶ月間の学習期間でした。
古い話ですが、私は”5期生”で1年間の勉強期間でした。
創立された時の「阿倍野学舎」に昭和46年4月に入学し、
次の年初めに「南千里学舎」に移りました!!
だから5期生だけは両方のを学び舎を知っております。
その当時をご存知の人たちも、だんだんご高齢になってきましたが・・・
皆さまお元気でしょうかねぇ~???
当時は1教室50人の生徒が日々研鑽に励んでいました。
人数が多かったので、授業も活気がありました。
地元関西はもちろん、西は九州・四国・中国地方、
東は浜松市から来ておられる方も・・・
ご実家が眼鏡店のご子息・ご息女の方が殆でした。
俗に言う”跡継ぎ”って云う方々でした。
皆さん、下宿やアパート暮らし。
私も阪急・淡路で四畳半のアパート暮らし・・・
家賃は「1畳・千円」の時代で、バイトで賄っておりました。
もちろん風呂なし・トイレも共有でした。
お風呂がないので銭湯通い、広々とした湯船で気持ちよかったぁ~~
47年前の昭和の世界・・・田舎から都会に来るとそんなものでした。
『神田川』の歌の世界を思い出してください。あの通りですよ (笑)
しかし、同じ生徒でも、お坊ちゃま・お嬢様は田舎からの仕送りで
優雅に暮らしてる方もおられましたが・・・貧富の差はあったなぁ~~
ほとんどの方が3時に授業が終わると、アルバイトをしていました。
中にはご実家が眼鏡店で、手伝っておられる方もおられましたが・・・
私も「時計・宝石・メガネ」の兼業店で夜9時まで働いてました。
でも、夜食が付いていたので経済的に凄く助かり、
お陰で実家から仕送りしてもらわなくても何とか暮らせました。
眼鏡学校の勉強は楽しかったですよ。
知らないことを教えていただき、覚えることの楽しさを味わいました。
小売店実習・眼科での研修・・・これは眼鏡学校の生徒でなければ
どこも受け入れてはくれなかったでしょう!!
この時代の知識は、その後の私の人生を支えてくれたと感謝しています。
今日の礎はこれらの事でなし得たんだろうと思います。
ここ20年位は、近くに転居してきたので
朝夕、通勤で学校の前を通っていました。
時々、昔教えていただいた講師の先生とすれ違うこともありました。
こちらは勿論覚えておりますが・・・先生は忘れているんだろうなぁ~~
卒業して20年以上経過して、毎日学校を見ながら通勤するなんて、
思っても見ませんでした!!
何か浅からぬ”ご縁”があったのでしょうか??
そんな青春時代を過ごした眼鏡学校が移転して北区野崎町へ・・・
南千里学舎へ移転したときに入学し、
私が業界を卒業する頃に解体されて無くなるなんて・・・
これにも”ご縁”を強く感じます!!!不思議ですねぇ~~
大切な思い出を忘れないでおこうと思って、
通勤途中に思いつくままに工事中の写真を撮りました。
日々解体されていく姿は、堪りませんでした!!
建築されて出来上がっていく姿なら歓迎ですが・・・
現在はこんな姿です。
この跡地には、戸建てが4軒出来ると聞いております。
あ~ぁ、私の思い出の学校が消えてなくなりました(号泣)
《タケナカ》
《 学校法人 銀海学園 日本眼鏡技術専門学校 》が
昨年11月に吹田市・南千里より下記の住所に移転いたしました。
〒530-0055 大阪府大阪市北区野崎町1番3号
TEL 06-6315-6633 FAX 06-6315-7030
昭和43年5月、「日本眼鏡技術学校」として
宇山安夫氏(大阪大学名誉教授)を校長にお迎えして開校されました。
日本で初めての眼鏡技術者養成学校です。
50年前に業界の将来を見据えて、大坂を中心とした
眼鏡商工業者の皆さまが、全国の同業者に募金を呼びかけ
設立基金となさったようです。
創立当時は大阪市阿倍野区昭和町にあり
1期生、2期生は6ヶ月間の学習期間でした。
古い話ですが、私は”5期生”で1年間の勉強期間でした。
創立された時の「阿倍野学舎」に昭和46年4月に入学し、
次の年初めに「南千里学舎」に移りました!!
だから5期生だけは両方のを学び舎を知っております。
その当時をご存知の人たちも、だんだんご高齢になってきましたが・・・
皆さまお元気でしょうかねぇ~???
当時は1教室50人の生徒が日々研鑽に励んでいました。
人数が多かったので、授業も活気がありました。
地元関西はもちろん、西は九州・四国・中国地方、
東は浜松市から来ておられる方も・・・
ご実家が眼鏡店のご子息・ご息女の方が殆でした。
俗に言う”跡継ぎ”って云う方々でした。
皆さん、下宿やアパート暮らし。
私も阪急・淡路で四畳半のアパート暮らし・・・
家賃は「1畳・千円」の時代で、バイトで賄っておりました。
もちろん風呂なし・トイレも共有でした。
お風呂がないので銭湯通い、広々とした湯船で気持ちよかったぁ~~
47年前の昭和の世界・・・田舎から都会に来るとそんなものでした。
『神田川』の歌の世界を思い出してください。あの通りですよ (笑)
しかし、同じ生徒でも、お坊ちゃま・お嬢様は田舎からの仕送りで
優雅に暮らしてる方もおられましたが・・・貧富の差はあったなぁ~~
ほとんどの方が3時に授業が終わると、アルバイトをしていました。
中にはご実家が眼鏡店で、手伝っておられる方もおられましたが・・・
私も「時計・宝石・メガネ」の兼業店で夜9時まで働いてました。
でも、夜食が付いていたので経済的に凄く助かり、
お陰で実家から仕送りしてもらわなくても何とか暮らせました。
眼鏡学校の勉強は楽しかったですよ。
知らないことを教えていただき、覚えることの楽しさを味わいました。
小売店実習・眼科での研修・・・これは眼鏡学校の生徒でなければ
どこも受け入れてはくれなかったでしょう!!
この時代の知識は、その後の私の人生を支えてくれたと感謝しています。
今日の礎はこれらの事でなし得たんだろうと思います。
ここ20年位は、近くに転居してきたので
朝夕、通勤で学校の前を通っていました。
時々、昔教えていただいた講師の先生とすれ違うこともありました。
こちらは勿論覚えておりますが・・・先生は忘れているんだろうなぁ~~
卒業して20年以上経過して、毎日学校を見ながら通勤するなんて、
思っても見ませんでした!!
何か浅からぬ”ご縁”があったのでしょうか??
そんな青春時代を過ごした眼鏡学校が移転して北区野崎町へ・・・
南千里学舎へ移転したときに入学し、
私が業界を卒業する頃に解体されて無くなるなんて・・・
これにも”ご縁”を強く感じます!!!不思議ですねぇ~~
大切な思い出を忘れないでおこうと思って、
通勤途中に思いつくままに工事中の写真を撮りました。
日々解体されていく姿は、堪りませんでした!!
建築されて出来上がっていく姿なら歓迎ですが・・・
現在はこんな姿です。
この跡地には、戸建てが4軒出来ると聞いております。
あ~ぁ、私の思い出の学校が消えてなくなりました(号泣)
《タケナカ》
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